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スイスの氷河・周氷河地形の観察

 私が以前勤務していた筑波大学にはユニークな学生実習がある。スイス南東部エンガディン地方で行われる「スイスアルプスの氷河・永久凍土・周氷河地形の観察・調査」だ。サンモリッツのそばにあるサメーダン駅が集合場所だ。自力でその駅まで行かなければならないのだが、この実習に参加する学生さんは逞しく、実習のついでにヨーロッパを色々旅行しているそうだ。また、5泊の実習中4日間は毎日エンガディンの山々を歩き回る。精神的にも身体的にも鍛えられる充実した実習だ。
 私自身は氷河・永久凍土・周氷河地形といったことには素人なのだが、幸運にも参加する機会を得た。刺激的で素晴らしい5日間だった。

ディアヴォレッツァDiavolezzaとモルテラッチMorteratsch氷河

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 ベルニナ線のベルニナ・ディアヴォレッツァ駅から、ロープウェイに乗り換えて標高約3000mの展望台に到着する。ディアヴォレッツァ山とモルテラッチ氷河が目の前に広がる壮麗な景観が迎えてくれる(右写真)。

 上から氷河を眺めたら、今度は下からアプローチする。再びベルニナ線に乗り、隣のモルテラッチ駅へ。そこからモルテラッチ氷河の先端までは遊歩道が整備されている(下写真)。

 この遊歩道には過去の氷河の先端位置を示す標識があり、1900年から何メートル後退したかが記されている。この表示に基づいて後退速度をプロットしてみると、1940年から1980年の40年間の氷河の後退スピード(27 m/年)は、前の40年(13 m/年)に比べると倍の速さになっていることがわかる(図)。1980-1990年は、後退が鈍化したが、近年また後退が顕著になっている。 それにしてもこの10年間でも、氷河の先端にたどり着くのに300 mも余計に歩かなければならなくなったのだ。

 

岩石氷河の観察

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 岩石氷河をご存じだろうか。私は初めて目にし、その自然が作り出した岩石の造形に魅了された。岩石氷河とはその名の通り、表面は岩屑・岩塊から成り、その下には一年中凍結した土砂や氷(永久凍土)がある。その永久凍土の変形によって,岩石氷河は斜面下方へとゆっくりと流動する。流動の影響により、周囲より10〜100m程度高く、岩石の上面には流動方向に直交する畝・溝状の「しわ」のような地形が同心円状に発達する場合が多い。コルヴァッチやムライユの岩石氷河にはこの岩石氷河のしわが明瞭に見て取れる(写真右、写真右下)。


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 岩石氷河の知識が無かったら、単なる土砂崩れか、氷河のモレーンだと勘違いしていただろう。
 この岩石氷河いったいどのくらいの速度で動くのだろうか。場所によって移動速度は異なるが、ムライユ岩石氷河の場合は、一番動いている部分で、年間約30-40 cmだそうだ(1981-1994年の解析結果)。この氷河の全長が約800 mなので、今、目にしている景観は、2000年かけて作られた造形と言えるだろう。

 動いている岩石氷河は「活動型岩石氷河」と呼ばれている。さらに、内部に永久凍土が残されてはいるものの、動かなくなってしまった岩石氷河は「非活動型岩石氷河」と呼ばれている。既に永久凍土も無くなり動かない岩石氷河は「化石岩石氷河」と呼ばれている。動かなくなると、次第に植物が定着していき、その姿形は緑に覆われていく

ソリフラクションの観察

 コルヴィリア山域には石灰岩からなる斜面がある。石灰岩は風化が早く、細かい岩屑を産出する傾向がある。これらの岩石からなる斜面は、凍結融解作用による土のふるい分けが起き、構造土が発達しやすい。筑波大学の松岡先生のグループはこの地形の成り立ちを理解するために、長年ここで観測を行っている。
 下の写真に示したのは、粒の荒い粗粒部と細かい細粒部が繰り返される条線土だ(幅は20 cmくらい)。秋の凍結・融解発生期に粗粒部より細粒部で凍上の発生頻度が多く(差別凍上)、この違いによって礫のふるい分けが生じているそうだ。この斜面にペンキラインを引き、その変形を計測すると、細粒部の移動量は粗粒部の3倍程度になるという(下図)。このような条線土の形成には、少なくとも数百回の差別凍上イベントが必要だと見積もられている。松岡先生達の地温観測によると、年間の凍結・融解のサイクル数は12-83回(平均34回)というから、この条線土が形成されるのにも10年ほどかかると考えられる。

 

ヨーロッパアルプス特有の景観

 日本では見られない奇妙な山岳景観がある。1つは山の斜面に作られた柵のような構造物(写真左下)。これは土石流・雪崩防止対策だという。急峻なこの山の斜面の下にはポントレジーナという集落がある。斜面にこのような突起物があることで、土石流や雪崩が起こりにくくなるそうだ(雪崩が起こってしまったら、それをくい止めるほどの力は無い)。そんな雪崩の危険がある場所に集落を作るとはと驚いてしまうが、私たちはそのおかげで、ヨーロッパアルプスのトレッキングを気軽に楽しめるのだ。 もう1つの山岳景観が山の斜面につけられた縞模様だ(写真右下)。これは家畜による通り道だ。傾斜のきつい斜面では家畜の通り道がくっきりとした筋となって見えるのだ。草を食べながら歩くので、家畜の頭の届く範囲が縞の間隔となっている。ヨーロッパアルプスは至るところが放牧に利用されている。人為影響が無い植生はほとんど無いと言ってもいいかもしれない。日本と違って樹木限界も複雑な形をしており、放牧に利用しやすい緩斜面では樹木限界が低くなっている。